その昔、禁忌とされた近親相姦を貫いた兄妹がいた。 二人の愛は真実だった。一切の夾雑物を交えない至高のものだった。しかし神々はそれを許さず、二人を罰した。 ―――昼は片方が獣の姿に、夜はもう片方が――― そして二人は永遠に人間の姿でめぐり逢うことの出来ぬまま、時は流れていった。 夜のマンションの空気は特に冷え込む。それが高層階の一室ともなれば尚更だ。瑠璃色のカーテンが下りたこの時半は人々に安寧をもたらすと同時に、奇妙な不安と孤独を感じさせる。高級感を重視し生活の匂いを一切合切排除したモデルルームのようなこの空間は、中で渦巻いている人々の無数の慟哭を呑みこみ嘲っているようだった。 そのうちの一室では、一人の少年が自室のベッドの縁に腰掛け膝を抱えていた。少年の貌は美しいが、それをかき消す程の深い煩悶と懊悩の念が表面に色濃く表れている。少年は唇を僅かに震わせると、ベッドに沈んでいるもう一人の人間に向かって手を伸ばした。だが、栗色の柔らかい髪に触れるか触れないかという所で、鬱陶しそうに腕を払われる。 少年は一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに向き直り元の表情に落ち着いた。規則的な時計の音だけが室内を支配する。 いつもの、金曜の夜だった。 「……ねえ」 未だベッドの上で狸寝入りを決めこむ青年に、少年はそっと話しかけた。しかし、青年は眉を顰めると少年の言葉をつき返すかのようにそっぽを向く。少年は長い指で青年の髪に触れ軽く口づけた。やめろ、と押し殺した声が耳に届き少年は自嘲気味に唇をゆがめる。 「……酷ェの。やることやった途端にお払い箱なんて」 「うるさい」 「なあ、娼婦の意地ってやつ?よく言うじゃん、身体は売ってもキスはさせない、身体は売っても心は……って」 少年がそこまで呟くと、左頬に衝撃が走った。じわりとした痛覚が皮膚を滑る。けれども、少年はまるでそれが愛情表現であったかのように、赤くなった自分の頬を何度も撫でた。 「下らねぇ事ほざいてないでさっさと寝ろ」 それだけ言い捨てると、青年は布団にくるまり今度こそ睡眠の姿勢に入った。ほどなくして静かな寝息が漏れ出す。少年はそんな青年の寝顔をしばらく見つめていたが、二、三度瞬くと視線を外した。 ―――この上なく静かな夜。青年の立てる寝息以外には車の音も人々の喧騒も何もかも聴こえず、安眠するには十分だった。だが少年のサンチマンタリスムに影響した種々の感情は、少年からその権利さえ奪ってしまう。長期の睡眠不足で痛む頭を抱え、少年は刻印のように刻み込まれた目元の隈を擦った。 青年が寝返りを打つ。肩に掛けていた襯衣が滑り落ち、白い素肌が露わになった。自分のつけた赤い鬱血の痕が見てとれ、少年はすこしだけ笑う。それと同時に――言い様のない虚脱感に包まれた彼は、音もなくベッドの端に沈んだ。 (……いやだなあ。こういうのってなんか凄く厭だ。あれ、なんか前にもこういうのあったような気がする。なんだろうな、なんだろう。気持ち悪いのか吐きそうなのか浮いてるのか沈んでるのか判んない、んだ) 少年はゆっくりと体勢を変え、ものいわぬ天井を見つめた。中央から下がっている照明は、暗闇の中で亡霊のように白く浮かびあがっている。だがそれは、部屋の隅に存在する闇を一層濃くしているだけに過ぎなかった。 「………あのさぁ」 少年は、視線だけを動かし隣にいる青年の意識を呼んだ。眠りが浅かったのか、その一声で青年は不機嫌そうに身を捩らせる。 「……こんな話知ってますか。近親相姦しちゃった兄妹の話」 「……………」 返ってきたのは無言だった。青年は明らかに、睡眠を邪魔されたことに機嫌を曲げている。だが、少年は気付かないふりをして喋り続けた。 「その兄妹ってのはね、血が繋がってんのに通じちゃって、神様に罰せられるんですよ。それで、片方が獣になってる間はもう片方が人間って具合に、死ぬまで人間の姿で会えなくなっちまうんです」 「…………………」 「ね、どう思います」 「……なにが」 「だから、この話」 「……さあな」 「何か一言くらい感想、あるっしょ」 「別に。よくある昔話だろ。面白くも無え」 「…そうじゃ、なくて」 少年は、シーツを動かすと青年の身体の上に圧し掛かった。 「!……何しやがる」 「だからさ、俺が言いたいのはそういう事じゃないんすよ。たださ、その兄妹ってのがすげえ羨ましくて」 「なに、言って……、っ」 「アンタには分かんないよなあ。分かんないよねえ。いつまでもそんな清潔なふりすんだから」 薄い掛け布団の下に手を差し入れ、青年の中を乱暴に掻き乱す。先程自分が翻弄したばかりの内部はどろどろに溶けた液体が跋扈し、不規則な脈動を繰り返す。 無表情のまま、少年は自分の下にいる青年の姿を見つめていた。ゆっくりと、しかし確実に、青年の表情は変化してゆく。そしてそんな時の青年は絶対に、少年と目を合わせようとはしなかった。 「……う」 苦しそうに眉を顰める青年に、少年は仔犬がするような頬擦り交じりのキスを一つした。だが、青年は僅かに瞼を開くと、煩わしいとでも言うように少年の頭を押し退ける。 少年の瞳に一瞬だけ闇がよぎり、その色は直ぐに苛立ちの混ざった悲哀に変わった。強引に青年の身体を押さえつけると、嫌がる素振りを撥ね退け蹂躙する。 悲鳴に近い喘ぎが、青年の口から漏れた。けれど、少年は行為を止めなかった。自分を罵倒し拒絶する言葉が零れることのないように、少年は青年の唇を噛み付くようにして塞ぐ。 広く寂しい部屋に、寝台が軋む音が響いた。 ぐったりと横たわる青年の背中を見つめながら、少年はぼんやりと自分が語った物語について考えていた。 小さい頃…まだ『近親相姦』がどういう意味なのかも解っていなかった時、いやに頭の隅に残ったこの話。平和な昔話や童話よりも、何故か自分の心を捉えた話。 (…そういえば、最後ってどうなったんだっけ) 神の罰によって引き裂かれた兄妹が、どのような末路を辿ったのか、少年は覚えていなかった。聞いたことがあるような気も、ないような気もする。漠然とした像さえ結べないまま、思考だけが脳内を彷徨った。 (……ふたり、は) ―――気付けば、少年はたった独りで荒野の真ん中に立っていた。 乾いた風が吹き抜け、少年の細い髪が靡く。靄のかかった意識のまま辺りを見回すと、遠くから小さな影がふたつ、此方に向かって駆けてきた。楽しそうな、幸せそうな笑い声が響いてくる。徐々に、大きくなる。小さかった影は次第に人の形を成し、それが若い男と女――兄妹のように似通った容姿をしている――であることも見て取れた。 二人はしっかりと手を繋いで、裸足で少年の前を駆けていく。時々恋人同士のように顔を寄せ合いながら、幸福の欠片をふり撒き去ってゆく。 少年が放心したように見つめていると、背後から彼の名を呼ぶ声がした。聞き覚えのある声に振り向けば、そこには先程辱めてしまった青年の姿がある。 けれども、青年はそんな事など気にしていないかのように、優しく穏やかな顔で少年に手を差し伸べた。…今まで一度も、少年が目にしたことのない表情で。 吸い寄せられるような足取りで、少年は青年に近付いていった。差し伸べられた手を取ると、次の瞬間、強く抱き締められる。ずっと焦がれていた匂いと温もりが、少年の全身に行き渡った。凍りついた心が溶かされてゆく感覚に少年は酔い、青年の首筋に頬をつける。 ―――あのさ、先輩。俺ずっと思ってたんだ。あの兄妹はなんて幸せなんだろうって。だってそうだろう、二人は自分たちだけで愛をつくったかもしんないけど繋げたのは神様の与えた罰なんだ。この世で結ばれなかったからずっと愛を育めたんだ。ずっと愛し合っていられたんだ。それから二人は死んで、あの世で永遠に一緒になれた。 なあ、俺はあの兄妹が羨ましいよ。あの二人の愛には形ができる。でも先輩、アンタと俺の間にはなにも出来ない。子供とか、そんなんじゃない。何をやっても終われない、何をやっても形にならない物があるような気がするんだ。 ああ、やっぱいつの時代でも神様って嫌な奴だなあ。どうして俺に、人を好きにさせたりするんだろうなあ。いっその事俺にも罰が下りねえかなあ。俺がずっと獣のほうでもいい、いつか誰にも邪魔されずに、アンタと一緒にいられるようになりたいなあ。―――アンタがどう思ってるのかなんて知らないけど、さ……… 少年のほうから微かに寝息が聞こえだした頃、青年は情事の痕が残る身体を無理に動かし起き上がろうとした。断続的に襲ってくる疼痛に、青年は僅かに顔を顰める。 けれどもその瞬間、後ろから少年が強く抱き締めてきた。起きているのかと青年は疑ったが、そんな様子は見受けられない。舌打ちをして少年の腕を振り解こうとした時、青年は、少年の目からひとすじ涙が流れているのに気がついた。青年は暫くその顔を見つめていたが、やがて溜め息をつきベッドに身を沈める。 そしてゆっくりと、少年の頬をつたう涙を拭った。 fin |
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