自分が彼に出会ったのは、夏の終わりが近づいた日の昼下がりだった。



小学校からの帰り道、ふと気になって覗いた廃屋の庭。昼だというのにそこは薄暗く、流れてくるのは湿気た黴と埃の臭い。どうしてそんな所に立ち入ろうと思ったのかは分からない。が、とにかくその時は小悪魔の誘惑にも似た好奇心に支配されていたのだろう。
生温い微風が吹きぬける中、軋む門を開き中へ入った。昔ながらの和風庭園の奥にひっそりと見える母屋、そして古びた蔵。当然ながら人の気配など全くない―――筈だった。


雑草の繁茂する中、青々と葉を靡かせている大樹。それを感嘆とともに見上げた瞬間、『誰か』が樹の根元に座っているのに気付いたのだ。こんな所にまで人間はいないだろうと高を括っていたものだから、当時小学生だった自分は仰天した。小さく悲鳴を上げて近くにあった木の陰に隠れると、恐る恐る顔を出し様子を窺う。


樹の根元にいたのは、自分より幾つか歳の多い若い男。その中でも自分が興味を惹かれたのは、時代外れのその出で立ちだった。袴に小袖、肩衣、そして腰には二本の刀……今どき、時代劇でしか見ないような武家の服装だ。
――次第に、恐怖に代わり純粋な興味が芽ばえはじめる。


震える足を踏み出し、一歩一歩その人影に近づいていった。男は項垂れていた首を上げ、視界に自分を認める。


「…誰だ、」


低い声音。重く心臓に響く。相対した面差しは凛として、甘さを感じさせないがけして冷酷な印象ではない。どくどくと脈打つ臓器を胸に、逸る気持ちを抑え訊ねる。


「なあ、あんた…誰?」

ゆっくりと、男が一回瞬きをした。そして真っ直ぐに自分の目を見据えると、徐に口を開く。


「初対面の人間に名を聞くときはまず自分から名乗れ。子供とはいえ無礼にも程がある」


流れるように紡ぎ出された言葉の意味が、最初は理解できなかった。会ったこともない人間に、今まで一度も言われたことがないことを要求されたのだから当然といえば当然だ。
数秒の間の後、自分はたどたどしく本名を呟いた。男は再び瞬きをすると、変わった名だな、と漏らした。自分はほんの少し口を尖らせ、名前教えたんだからあんたも何者か教えてくれと詰った。男はほんの少しだけ逡巡すると、本名かどうか判らないが名前を自分に教えてくれた。





「…あんたは侍なの」

隣に座ることを許された自分は興味津々といった態で男に話しかけた。すると男――屑桐というらしい――はそうだ、と短く答えた。

「変なの。こんなところで何してんだよ」
「……人を、待っている」
「誰」
「仲間のひとりだ。互いに敵軍を打ち破ったらこの樹の下で会おうと約束した」

男は、そう言って空を仰いだ。葉と葉の隙間から夏の日差しが零れ、自分と男の間に落ちる。

「その仲間とかいう人は、来るの?」
「分からん。だが約束したからには、俺はここで待っていなければならない」
「先に行っちゃいけねえの」
「そんな事は許されん」
「ふうん…なんか色々めんどくせーんだ。俺友達との約束なんていつも破るけど」
「それは駄目だ。友人との約束を守らないといつか独りになるぞ、貴様」
「……いーよ別に………てか、あんたこんな所いてつまんなくない?」
「……そんな事より、さっきから貴様は一体何だ。俺に用でもあるのか」
「…ちがうよ…ただ、なんかあんたちょっと変だから」
「変?俺のどこがだ」
「あのさ、今はもう侍とかいないんだ。あんたの言う戦だって、もう終わってるよ」

そう言うと、男は自分から視線を外し目を閉じた。


「ねー、あんた幽霊なんでしょ。もう仲間とか、来ないんじゃない」
「…………………」
「ねえってば」
「…そんなことは貴様に関係無い。いいから早く帰れ」

男は目を閉じたまま命じた。幼かった自分はふて腐れてその後も暫く質問を続けたが、その日男が返事をすることはついぞ無かった。







次の日、自分は再び例の庭に行った。男は昨日と同じように樹の幹に背中を凭れさせ、静かに空を見つめている。

「また来たのか」

その声音には少々呆れた調子が混じっていたものの、拒絶の色はなく安心した。鞄を無造作に放り投げ隣に腰を下ろすと、男が僅かに眉を上げる。

「…いやに、甘い匂いがするぞ」
「?…ああ」

自分は噛んでいたガムを小さく膨らませ、これでしょ、と視線で示した。男はますます眉間の皺を深くし、一体それはなんだ、と言った。

「お菓子だよ……でもあんたの時代には無いだろうけど」
「今の子供はおかしな物を食べるんだな…何故そのような物を口にする?」
「さあ…なんとなく」

そういえば考えたこともないな、と思いながら自分は膨らませたそれを割った。ぱちんと小気味よい音がして薄い膜が弾け、芳香を含んだ粒子が空気に溶ける。

「あんたも、食べてみる?」
「要らん」
「あ、そ…てかあんた幽霊だから食べられないんだっけ」

そう呟いて、もう一度咀嚼したガムを膨らます。男は再び黙り込んでしまい自分の動作に言をつけなくなったが、それを不快には思わなかった。けして自分を無視している訳でないことが感じられるからである。この屑桐という人間は、どんな時でも他人の存在を排除することはしないようだ。


…それにしても、どうしてこんな得体の知れない男に興味を抱いたのだろう。時代錯誤の格好からして幽霊であると思いこんだがこうして普通に話すことも、身体に触れることも出来る。しかも、自分はこの男について何も知らない。ほんとうに、ただの偶然で出逢った人間。
だったらこの、妙な心地良さはなんなんだ。自分は人間も、人間と関わることも好きじゃない。これまでギリギリの境界線を踏み越えないようにして他人と笑って付き合ってきた。なのに今はそのボーダーラインを自分から越えようとしている。なぜだろう。


――生きていない、から?




「…どうした」
「え」
「顔色が悪いぞ。こんな所にいるから体調を崩したんだろう、馬鹿者」
「……………」
「今日はもう帰れ」
「…今日は、ってことはまた明日も来ていいってこと」
「………」
「ねえ」
「…好きにしろ」

男は溜め息をついて横を向いた。それを見た自分は笑いながら鞄を背負い、ゆっくりとその場を後にした。





―次の日は生憎の雨だった。学校を早々と終えた自分は傘を差しながら帰路を辿り、先日と同じように男のいる庭へと向かう。雨に濡れているのではと思ったが、大樹の下に座っていたため被害は免れたようだ。

「こんちは」

自分の姿を認めると、男は無言で少し移動し、場所を空けてくれた。傘を閉じ軽く雨粒を払うと、黙って隣に座りこむ。


「…お前は変わった子供だな」

唐突に、男が切り出した。

「こんな所に来てどこが楽しい?俺が何かして遣るでもなし…子供はもっと色々遊びたがるものだろう」
「なんでそんな事言うの」
「俺には弟や妹がいたが…皆よく遊びたがったぞ」
「あんた、きょうだい居たんだ」
「…ああ」
「会いたかった?」
「当たり前だろう」
「ふうん…いいね、そういう家族がいるのって」
「……お前にはいないのか?」
「いや、家族は一応いるけど…あんまし、俺の話とか聞いてくれねーし、なんかどうでもいいや。俺のことなんて興味ないみたい」
「そんなことはないだろう」
「………だったら、いいけど」

自嘲気味に笑って、邪魔な前髪をかき上げた。夏にしては冷えた風が身体を撫でる。――ふいに、心が沈んだ。




「…あのさ」
「なんだ」
「ひとつ、訊いていい……あんたこそ、なんで俺のこと相手にしてくれるの」
「………………」
「邪魔だとか、疲れるとか思わないの。だって嫌いな奴といると俺すげーうんざりくるもん。それとももう慣れちゃった?」
「…………」
「答えてよ」
「…お前を邪魔だのなんだのと思ったことはない」

男は、静かに息を吐いた。


「寧ろ…お前が来ることで気が紛れていた。なにせ俺を訪ねる者も、気づく者もこの数百年いなかったからな。実をいうともう待っている仲間の顔も忘れかけている。……そもそも、自分がいつ死んだのか、自分は現世にいるのか常世にいるのか、それすらもう分からなくなっていた」
「…………」
「おそらく俺はもうここに居るべきではないのだろうが…お前が来るかと思うと何故だか動けなくなった。どうにも判らんがお前にはひどく懐かしさを感じる」

そう言って、男はじっと自分の顔を見つめた。黒曜石のような瞳に自分の姿が映る。

ぽたり、と背後で水滴が落ちた。



「……でも」
「?」
「俺、あんたに消えてほしくないなあ。だってこんなに俺の相手してくれたのあんたが初めてだもん。難しいことよく分かんねえけど、俺あんたと一緒にいたいよ」
「…………………」
「俺もっとあんたに話聞いてもらいたい。あんたが嫌じゃなかったらそれこそほんとに、山ほど話したいことあるんだ…あんたの話だって聞きたいし、あんたのことだって知りたいよ。でももうすぐあんたは―…どっか遠いとこへ、行っちゃうんだろう」

自分は男にしがみついた。服のざらざらした感触が伝わり、沈丁花の香りが鼻を擽る。


「ねえ、ちょっとこうしててもいい」

男の胸元に顔を埋めたまま呟いた。構わない、という答えが聞こえた気がしたが、その頃にはもう滔々たる夢のなか。

あたたかな温もりが男から伝わってくる。まるで生きているかのように。
本当に生きていてくれたら、そして自分の身近にいてくれたら、と思った。それが有り得ないと判っていても、縋ってしまう。求めてしまう。だって今感じているこのぬくもりは、本物なのだ。







「……生きてる人間より、あったかいよ、あんた……」


薄れる意識の向こうで自分を抱き締めかえした感触は、現かそれとも幻か。

























数日後、自分はいつものように庭へ行った。普段なら大樹の根元に座り込んでいる男は、こちらに背を向け頭上に広がる枝葉を見つめている。

「……どうしたの」

自分の声に男が振り返る。出会ったときよりも幾分柔らかな―しかし静かな色を湛えた瞳を自分に向けると、至極ゆっくりとした調子で口を開いた。


「……どうやら、ここを去らねばならないようだ」
「………もう?」
「ああ…この樹も言っている」

男は、年季の入った大樹の幹を撫でた。


「皮肉なものだな…俺に気付いてくれる人間が現れた途端に迎えが来るとは」
「………行っちゃうの」
「…ああ」
「もう少しだけいてよ」
「……無理だ」
「いてってば」
「出来ない」
「どうして!」


「……もう、限界だ」





――男の胸元に、じわじわと赤い染みが広がりつつあった。身体のあちこちには深い刀傷や裂傷が現れ、ぼたぼたと鮮血をこぼし始める。
そして、男の顔面には痛々しい火傷の痕が浮かびあがっていた。顔半分を覆う残酷な印。まるで罪の烙印を押されたかのように残るそれは、死の直前男が通り抜けた哀しい過去を物語っている。

男が、わずかに微笑んだ。









「さよなら、だ」










一瞬、目の前が真っ白になった。翳む視界の向こうで男の姿が陽炎のように揺らめき、跡形もなく消えてゆく。それと同時に、男を護るように聳えていた大樹は一度だけ葉をさざめかせ音もなく塵となり、朽ちていった。

まるで全てが虚像であったかのように、目の前の光景が崩れていった。確かに自分が触れ、語りかけたものすべてが、幻影のごとく消え去った。
あとに残されたのは自分と、荒れ果てた庭の残骸。



自分はしばらくそこから動かなかった。どこからが夢で、どこからが現実だったのか解らなかったからだ。
けれども、次第に目の前の光景は視覚として捉えられ、嫌でも脳内が現実味を帯びはじめる。否定したくても、どうしようもない事実が自分を覆いつくして、逃れられない。



…また、ひとりになった。








―――その時、初めて自分は泣いた。







































それから数年の歳月が経ち、自分は彼と同じくらいの年齢に達した。

時の流れは、自分を寂しさに泣くことも、余計な感情に惑わされることもなくなるまでに成長させた。幼かったあの日のように傷つくことはもう、無い。


けれども、たまに――ほんの少しだけ、彼を思い出し、捜してしまう。そんな時自分は無意識のうちにあの庭に向かうのだが、荒地となった地面が広がるばかりで、彼に会うことは二度となかった。






fin







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